熊本
Re:小柳さん
Re:続きです、
菊池家の惣領を受け継ぐには先代の譲り状と一族重臣の承認を得なければなりません、でも武澄除いて誰も承認しなかったものですから、武光としては波乱のスタート、大変苦しいスタートでした、でも肥前守六郎武澄と阿蘇大宮司惟澄が大いに力になってくれたので彼らのお陰でなんとか困難を乗り切り九州に覇をとなえる事できました。だから武光が惣領になってからは一族重臣の資料歴史上急に途絶えたんですね。だれも認めなかったから。前にも言いましたように武澄の墓は法名慈雲?は正観寺にありますがその他名だたる武将一族重臣達の墓は恐らくはこの東福寺にあったと思われます。
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熊本
Re:小柳さん
続きです、
この与一武隆とはすぐ下の弟の14代武士が後継ぎに(兄の与一殿にしようか、それとも武重公の子である乙阿迦丸にしようか)迷っていたのが菊池武士書状に残ってます、ところがそれを決めるのを大智和尚にお願いして出家してしまい、その後十郎武光が半ば強引に15代に襲名してしまいました。始めは征西府と吉野朝は戸惑ってました。しかし後で認めてます、が、菊池一族の重臣達は誰も認めていません、唯一六郎武澄だけが認めてます。だから菊池の武光の菩提寺である正観寺には兄弟では唯一墓が残ってます。
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熊本
Re:初代菊池の末裔さん
はい、大丈夫でしたよ
県南の方、人吉球磨地方が大雨で大変だったみたいです、益城が全国放送で流れてましたけど、大した事ありませんでした、菊池様みておられますか?この益城は与一武隆の本拠地だったんですよ。島田家文書に武隆が練崎城に~と記録に残ってます。このねりさき城とは何処なのか不明です。
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熊本
すみません間違いです、
戦国武将⇒戦国大名
幕末の西郷隆盛⇒明治維新の西郷隆盛
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熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
南北朝時代の事、本当はもっと詳しくお話したいのですけどこれで終わります。菊池一族は公家同士の戦い、武家同士の戦いには余り介入しません、それは以上の様な理由からです、実はそれであるが故に欲で動かない故に戦国武将になり得なかったんです!そして戦国時代には滅んでしまいました。でも菊池一族の精神、美しい凄いと思いませんか?!。私は菊池一族ではありませんが歴史上の人物武将で最も尊敬それ以上が菊池一族です、世界中で類を見ない立派な一族ですよ!言い過ぎではないです、でも神様仏様とは思ってませんよ。
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熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
その後、南北朝の時代を迎えます、その時代をみると分かるのですけど天皇対武家(足利、源氏)の構図となります。これからが管理人の菊池様の御先祖であられる13代武重の時代です。当然何があってもどんな不利な状況であっても最期まで天皇家に味方しました。これは当然の成り行きです。もうやめればいいのに、武家方になればいいのに、と思うんですけど、それを絶対にしないのが菊池一族の鉄の意思偉大な精神力です。それと同時にもう一つ言える事は私利私欲でない事、恩賞目当てでない事です。幕末の西郷隆盛がそうであったでしょう!これがまた凄いところで世間の人達に知って欲しいですね!
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熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
この活躍で武房は歌にまで歌われたと言われてます。しかし、幕府からは何の恩賞もありませんでした、ただ朝廷から甲冑を頂いただけです。これにより武房は怒り、これにより菊池一族は反幕府へと傾斜していく!と言われてますがそうではありません。実は菊池一族は幕府の御家人ではなく朝廷直属軍であったからです。朝廷は土地を持ってないので甲冑を褒美として与えた訳です、今は平氏(北条)の世と言えども武房も自分より下の幕府から恩賞を貰う訳にはいかないではないですか、誇りが許しません。しかし、幕府はかえって気の毒がり弟の三郎有隆には恩賞(土地)を少しばかり与えてます。反幕府というのは成り立ちません!
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熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
菊池の血が流れているのなら菊池一族の凄いところは心の中にしまって誇り高く生きて行って下さい。あなたは井芹さんですよね?井芹とは菊池八十三家の一つです、蒙古襲来絵詞に描かれている菊池六集団の左端が井芹氏と思われます、あなたの先祖は武房と共に菊池軍団の一員として蒙古軍と命懸けで戦ったと思います。この元寇で日本軍が散々敗北したのに対し菊池武房は大勝利を治めました。元軍に精神的にも大ダメージを与えたんですね!あんなに日本軍をナメていた元もまさかこんな強い武士がいたとは、これが彼らの撤退の原因のほとんどと考えられます。また次回に続きます、
(au)