1 無名さん

○法政大学野球部○

情報ありますか?
2 無名さん
誰か〜
3 無名さん
本年度のスローガン
“Everthing is for the team”
(全てはチームのために)
〜「鍛錬千日 勝負一瞬」熱く・激しく・粘り強く〜
4 無名さん
山本浩二氏、殿堂入り
5 無名さん
昭和44年卒の山本浩二氏が、この度野球殿堂入りされることになりました
6 無名さん
現役時代は広島東洋カープで活躍し、球界を代表するスター選手の一人で、「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれました
7 無名さん
引退後も広島監督を2度務め、1358試合648勝621敗29分という成績を収められました
8 無名さん
現在は、北京五輪野球日本代表守備走塁コーチを努められています
9 無名さん
おめでとうございます
10 無名さん
法政大学野球部は、数多くのOBを輩出しております
11 無名さん
法政大学野球部監督
金光 興二 KANEMITSU KOJI
12 無名さん
1955年9月15日生
13 無名さん
出身校/広島県立広島商業高等学校→法政大学(社会学部)
14 無名さん
昭和51年から使われてきた前合宿所が老朽化により2001年2月8日に取り壊され、
新合宿所が2001年12月10日に完成しました。
現在は全寮制をとり、この合宿所と、第二合宿所である藤ハイムとの2つに分かれ生活しています。

 
15 無名さん
武蔵小杉駅から徒歩約10分。HOSEIの文字が輝くこの3階建ての建物が合宿所です
16 無名さん
1階には監督室、コーチ室、マネージャー室、食堂などがあります。2、3階は部員の居室になっていて、2階にはミーティングルーム
17 無名さん
3階には浴室があります。
18 無名さん
食堂ホール

 全60席がおり
19 無名さん
駐車場がございませんので、お車でのご来場はご遠慮下さい
20 無名さん
ちなみに女性連れ込み可となっております
21 無名さん
つれこみすぎでしょ
22 無名さん

バレて厳しくなったからそんな簡単には無理だよー
23 無名さん
スリルがあって逆に楽しい☆バレたらおわりだよね。。
24 無名さん
2001年12月に野球部の新合宿所が完成しました。その建設に際し、地元中原地区の皆様に大変お世話になり、また地元における新たな交流を持つことが出来ました
25 無名さん
中原区の企業が中心となり、法政大学野球部後援会「朋心会」が2002年2月26日に発足致しました
26 無名さん
「朋心会」の”朋心”は2002年法政大学野球部のスローガンでもありました。
27 無名さん
今後、野球部と中原区の交流がより一層深められる様に、「朋心会」よりさまざまなプログラムを発信して頂きます。
28 無名さん
朋心会会員でいらっしゃる川○○友さん(享年69歳)が、2007年10月28日(日)に永眠されました
29 無名さん
法政大学野球部は1915(大正4)年に創部された。1917年に四大学リーグ(慶大・早大・明大・法大)に加盟、1921年に立大が加盟し五大学リーグに、そして1925年に東京帝大(現東大)を加えて六大学野球連盟が成立する。しかし今でこそ、リーグ戦優勝回数最多を誇る法大野球部だが、その当時は早・慶・明の壁を破ることがなかなか出来なかった。
30 無名さん
悲願の初優勝はリーグ加盟14年目の1930(昭和5)年秋である。監督に野球殿堂入りした藤田信男氏、大学通算43勝をマークした若林忠志氏を擁しての初優勝であった。この優勝後、法大野球部第一期の黄金時代を築き、戦争で野球部が解散するまでに5回の優勝をする。
31 無名さん
1943(昭和18)年、戦争の為、六大学野球連盟が解散。1944年には、法大野球部も解散し、銃剣術部等に転部する。しかし、戦後、1945年の11月中旬には野球部として活動を再開。12月9日には早大・慶大・明大・法大4チームのOB戦が行われ、翌46年には六大学リーグ戦が再び始まるのであった。
32 無名さん
戦後、法大野球部は低迷する。しかし、リーグ戦が復活して三年目の1948(昭和23)年秋にようやく優勝、この通算六回目の優勝は、初の完全優勝であった。そしてこの年の大学王座決定戦で優勝を飾り、法大野球部は完全に復活を果した。
33 無名さん
練習場は、野球部発足当時は柏木のグラウンドを、1917(大正6)年には神田橋グラウンド、19年からは中野(新井薬師)グラウンドを使用する。1939年3月、現在の練習場である川崎市木月に移転
34 無名さん
軍需工場の寮を借り受け合宿所とする。翌年、ネット裏近くに約40名収容の二階建木造の合宿所を新築する。
35 無名さん
戦時中に、空襲で焼失するが、戦後の1948年、球場が米軍より返還されたのに伴い、木月の旧弓道場を改装し合宿所とする
36 無名さん
1953年に現合宿所敷地に建坪70坪の合宿所が建設され、現在に至る。
37 無名さん
1960(昭和35)年の春、リーグ戦で通算7回目の優勝を飾った法大は、全日本大学野球選手権大会で初優勝を果たし、名実ともに大学日本一のチームとなった。
38 無名さん
以来リーグ戦で3度四連覇を果たし、リーグ戦優勝回数はリーグ最多の42回、全日本大学野球選手権大会優勝回数も最多の7回を誇り、日本一の大学野球部として活動し、学生野球の発展に貢献してきた
39 無名さん
また、多くのOBが、アマチュア野球・プロ野球を問わず活躍し、野球界の発展の為に尽くしている。
40 無名さん
悲願の初優勝
昭和5年 秋季リーグ戦
41 無名さん
戦後初優勝
昭和23年 秋季リーグ戦
42 無名さん
第25回優勝
昭和57年 春季リーグ戦
六大学野球史上初の10勝全勝優勝
43 無名さん
第30回優勝
昭和62年 秋季リーグ戦
3度目の4連覇へスタート
44 無名さん
法政大学校歌
作詞 佐藤春夫
作曲 近衛秀
45 無名さん
一、若き我等が命のかぎり ここに捧げてああ愛する母校

   見はるかす窓の富士が嶺の雪 螢集めむ門の外濠

   良き師良き友集い結べり

   法政おおわが母校 法政おおわが母校
46 無名さん
ニ、若き我等が命のかぎり ここに捧げてああ愛する母校

   われひと共に認めたらずや 進取の気象質実の風

   青年日本の代表者

   法政おおわが母校 法政おおわが母校
47 無名さん
応援歌 若き日の誇り
48 無名さん
法政 法政 法政 燃ゆる陽の生命こそ

 沸る我等が血潮 今ぞ競技の試練

 制覇を誓いて鍛えし腕 見よこの振興の気概
49 無名さん
恐れぞなき力持て 征け闘え破れ堅塁を

 我等が勝利の凱歌 おお高らかに叫ばん

 若き日の誇りぞ 法政 法政 法政
50 無名さん
応援歌 暁の勇者
51 無名さん
一、昇る朝日を 仰ぎ見て

  我らは誓う 勝利の二文字

  いざ行け いざ行け 暁の勇者
52 無名さん
栄えある我らの その呼び名

  響け天下に 法政 法政

  暁の勇者
53 無名さん
ニ、猛き強者 集う時

  たぎる闘志で 大地が燃える

  いざ行け いざ行け 暁の勇者
54 無名さん
栄えある我らの その呼び名

  響け天下に 法政 法政

  暁の勇者
55 無名さん
2008年1月12日(土)、法友野球倶楽部(野球部OB会)の総会と新年会が、それぞれ武蔵小杉の精養軒にて行われました
56 無名さん
あいにくの天候の中120名ものOBの方々が集まってくださいました。新年会は4年生の送別会も兼ねて行われ、社会に出る卒部生にOBの方々から激励の言葉をかけていただきました。
57 無名さん
日頃から野球部に対して多大なご支援をくださるOBの方々への感謝の気持ちを胸に、春季リーグ戦に向けて練習に励んでいきたいと思いました。
58 無名さん
合宿所調理パート募集中
59 無名さん
1年もコンパとかしてるの?
60 無名さん
1915年(大正4年) 法政大学野球部が正式に発足。グラウンドは柏木(現・新宿)。コーチに早大野球部の八幡恭助氏を迎える。
61 無名さん
東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。法政大学の学生によって構成されている。
62 無名さん
1917年(大正6年) 四大学リーグに加盟。野上豊一郎氏が部長に就任。神田橋グラウンドを使用。
63 無名さん
1930年(昭和5年) 六大学リーグ悲願の初優勝。(四大学リーグ加盟以来14年)
64 無名さん
1939年(昭和14年) 練習グラウンドを川崎市木月(現・中原区木月大町)に移転。(現在も使用)
65 無名さん
1960年(昭和35年) 全日本大学野球選手権大会初優勝。
66 無名さん
2004年(平成16年) リーグ戦通算1000勝達成。
67 無名さん
東京六大学リーグ戦が始まった1925年秋季は1分けのみの10敗で最下位と、のちの強さからは信じられないテールエンドからのスタートだった。
68 無名さん
その後も好選手はいながらも2位にもなることなく苦戦が続いたが
69 無名さん
主将だった藤田信男が監督に就任しハワイから若林忠志が入学すると一躍早慶明に割って入り1930年に初優勝、
70 無名さん
以後若林在学中に3度の優勝を果たし第一期黄金時代を迎えた
71 無名さん
藤田はその後も野球部長として生涯野球部の発展に尽くし「法政野球部の父」と呼ばれている。戦争に伴う野球弾圧の波は法政にも例外なく及び
72 無名さん
1943年をもって活動を停止、翌1944年に部員たちは銃剣術部などに転部を余儀なくされ、数多くの選手・OBたちが戦争の犠牲となった
73 無名さん
空襲によって当時グラウンドのバックネット裏にあった合宿所などを焼失する被害も被った。
74 無名さん
戦後は1945年11月に活動を再開し、接収されていたグラウンドが返還された1948年に関根潤三が力投して秋季リーグ戦で戦後初優勝を遂げるが
75 無名さん
その後11年天皇杯から遠ざかる長期低迷期に入る。服部力監督のもと山本一義・室山皓之助らが活躍して1960年春季に久々の優勝を果たしたころから優勝争いの常連となっていった
76 無名さん
田丸仁監督を経て松永怜一監督の代では田淵幸一・山本浩二・富田勝の「法政三羽烏」が打ちまくり、その猛打は「法政火山」と呼ばれ恐れられた。またエース山中正竹がリーグ最多の通算48勝を挙げた。
77 無名さん
1969年秋季からは最初の4連覇を果たし、4連覇から5年後の1976年からは江川卓や現監督の金光興二らを中心に2回目の4連覇を果たす
78 無名さん
この4連覇はすべて勝ち点5の完全優勝であり、東京六大学に6例ある4連覇のなかでは唯一の記録である。
79 無名さん
その後80年代の10年間は鴨田勝雄・竹内昭文両監督の下毎年必ずどちらかのシーズンで優勝を記録
80 無名さん
10戦全勝優勝(1982年春季)、無敗優勝(1985年春季)、大学選手権連覇(1984年・1985年)、3度目の4連覇(1987年秋季から)など長期黄金時代を築く。
81 無名さん
1990年代初頭に一時低迷するも山中が監督に就いた
82 無名さん
1994年から再び毎年優勝を重ねる強い法政が復活した。
83 無名さん
リーグ優勝は六校中最多の42回、うち36回が1960年以降の優勝である
84 無名さん
大学選手権優勝も最多の7回を数えるなど、六大学のみならず大学球界の雄として全国にその名をとどろかせている。
85 無名さん
主な出身者
86 無名さん
苅田久徳 - 大学時代は遊撃手。史上最高の天才二塁手。本牧中出身
87 無名さん
西垣徳雄 - 元国鉄スワローズ監督、ロッテオリオンズ球団代表。第一神港商業出身
88 無名さん
鶴岡一人 - 三塁手・主将、広島商業出身。南海ホークス監督、「鶴岡親分」
89 無名さん
根本陸夫 - 捕手、日大三中出身。元ダイエー球団社長。
90 無名さん
新山彰忠 - 昭和30年代の主戦投手・主将。戦後法政の再建に貢献。兵庫工業高出身
91 無名さん
山崎武昭 - 同上。高知商業高出身
92 無名さん
長池徳士 - 外野手、撫養高(現・鳴門一高)出身。パリーグ記録の32試合連続安打。
93 無名さん
桑原秀範 - 野手、広島商業高出身 / 鐘淵化学→広島商・堀越高監督
94 無名さん
江本孟紀 - 投手、高知商業高出身。現役時代・引退後も話題の多い人物として知られる。
95 無名さん
山本功児 - 一塁手・三田学園高出身。元千葉ロッテ監督。
96 無名さん
長崎慶一 - 外野手・主将、北陽高出身。1972年、史上初の春秋連続首位打者
97 無名さん
新井宏昌−外野手・PL学園高出身。近鉄時代に当時のパリーグ年間最多安打を記録。
98 無名さん
高代延博 - 内野手・主将、智弁学園高出身
99 無名さん
植松精一 - 外野手。静岡高出身。江川・金光と同期
100 無名さん
情報でした
なお、駐車場はございません