1 鈴木♂

自転車の少年

これは私の友人が中学生の頃に経験した、今から約30年位前のある夏の夜の
出来事です。
その日、彼は海岸で行われるキス釣り大会に出場する為に、深夜の午前二時頃
に自転車に釣り道具を積んで家を出ました。
彼の家は海から遠く、夜が明けるのが早い夏の事ですからその位の時間に出発
しないと夜明けまでには海岸にたどり着けなかったのです。

彼の乗った自転車は市街地を抜け、広大な水田地帯を抜け、やがて防風林の
松林の中に入って行きました。
新潟という地域は冬になると俗に言う「シベリア下ろし」という強烈な季節風が
吹き、それ以外にも風害や塩害から農作物を守る為に、幅数百mに渡る人工の
松林が海岸のすぐ傍に造成されているのです。

彼は街灯もろくに無い松林の中の砂利道を暗い自転車のライトだけを頼りに
走って行きました。
するとそのライトが道の上に立つ小学生らしき少年とその傍らに置いてある
自転車の姿を照らし出しました。
彼が思わず自転車を止め、少年の様子を伺うと「一緒に行っていい?」と
一言だけ聞こえたのだそうです。
彼はその時、この少年は自分と同じキス釣り大会に出場しようとして自転車で
海岸に向かおうとしたのだがライトの電球が切れてしまい、走れなくなって
しまったのだと勝手に解釈して「いいよ」と答えたそうです。
自転車のライトという物は自転車が止まれば消えますから、辺りは暗闇に近い
状態でかろうじてぼんやりとした月明かりが照らす松林の中で二人の少年は
そんな会話をしたのだそうです。
2 鈴木♂
それから彼が先頭に立ち、二人は松林の中の道を自転車で走り出しました。
彼は走りながらも数分おきに後ろを振り返り、後続の少年がちゃんと着いて来て
いるのかどうかを確かめながら走ったそうなのですが、やがてある時後ろを
振り返ると少年の姿は消えていました。
彼はすぐに自転車を止めその辺りをよく見たのですが、その場所は道の両側が
むき出しの土の壁、つまり丘を切り開いて道を作ったという感じの場所だった
そうです。
彼は責任感から自転車を方向転換させ、もと来た道を少年を捜しながら戻って
行ったそうなのですが、少年と出会った場所まで戻っても少年の姿を見つける
事はできませんでした。
3 鈴木♂
彼のお話はここで終わります。
普通の怪談噺だったら実は松林の中に墓地があったとかその場所は昔、交通事故
で子供が死んだ場所だったという誰にでも分かり易い落ちが付くと思います。

鈴木♂という人は奇怪な体験をしたという人には相手が嫌がる位、根掘り葉掘り
その当時の状況を聞く人なのですが、彼にその様な質問をすると「その近くには
墓地も無かったし交通事故があったという話も聞いた事が無い、それどころか
その道で夜に自転車に乗った子供を見たという話も聞いた事が無い」という事
でした。

鈴木♂も無駄に長年生きているせいか、色んな方から奇怪な体験談を聞く事が
あります。
でもその殆どが「あれって何だったんだろう?」という説明や落ちの付かない
お話で終わります。
本物というかリアルな怪談噺ってこれが真実なのではないかと鈴木♂は思います。