59 だ・み・い
我々はなぜ正しく生きなければならないかという問に正確に答えられる日がくるまで俺はこの問題において犯人のしたことを否定することができない。

ゲーム理論的観点から言えば全人類がブッパしたら間違いなく世界は破綻するわけだし、10パーくらいでもそうかもしれん。

しかし、それはありえそうにない。
ブッパ連鎖とかがあったとしてもね。

彼の行いによって確かに人が死んだわけだけど、死ぬ人はすくない。
僕がしないからみんながしないとはかぎらないし。

仮に僕がやるとして、みんなもするとしたらどうかな。
僕がやるために誰かにやられたらとしたら、それはある種自己犠牲。

例えばとっても人が殺したいひとが現われた時にどうやって止めればいい?
どうしてもっていうなら一人でいいなら俺が死んでもいい。

思想の自由というのは危険をはらんでいるよね、それを奪ったらほんとに終わりだけど。

今の法律ではたしか、人が殺そうとしてきた時には殺してもいいんだっけ?
相手のアタック以下のアタックなら返していいんだっけ?
殺そうとしてきたら殺してもいい。
ナイフで手をさそうとしてきたら手をさしていいみたいな。

でも、それはどうなの?

聖書には左の頬もと書いてある。

殺そうとしてきた人を殺せる理論がよくわからんな。
殺そうとするような人より殺されそうになる人のほうが命の価値が重いってこと?

俺の中の正義では誰かを生きるためにでも殺すくらいなら道を譲る。
たとえ、誰が相手でもね。

それが俺の思う正しさ。

欲求というものは言語を超えたものがあるとおもうよ。
非合理なものともいえる。

それに対して理性、正しさというのは言葉でしかないんだよ。
なんとも無力。

なぁ、人は生きることが正しくないとしたら死ぬことができるだろうか?