申たん♪軍団で委員会
過去ログ145
2008/5/27 18:27
▼関将軍「ちょうじ」です(^-^)
春秋時代(三国志の時代より八百年ほど昔)晋の文公の諱にあやかったものですね。
当時は周王朝が形式上の君主として存在していて、まぁ日本の天皇制に近い存在でしょうか、そして実質的な最高権力者を諸侯が一堂に集まった会盟によって決め、その人物を「覇者」と呼びました。これが覇者という言葉の起源ですね。
覇者は諸侯から献納を受けるかわりに内紛の仲裁や討伐を行う役割がありました。文公は春秋時代五人の覇者の一人にあたります。
覇者になるくらいだからバリバリの人物かと思われますが、ところがこの人は二十年も亡命生活をしていて在位期間は晩年の僅か九年足らずなんですね。
君主の座をめぐる身内との内紛で命を狙われ、諸国を放浪してたんです。まぁダライラマみたいなもんですかね。
他国では政治的に利用されて大歓迎を受けたり、非常に粗末に扱われたりするんですが、帰国して君主となり、覇者になれたのも何と言うかまわりに担がれただけで、本人は割とのほほんとした人物なんですよ。私が想像するに武力がどうとか知力がどうとか言うより、重耳という人はただ単に面白いお爺さんだったような気がするんです(笑)面白いからという理由で天下を取れた稀な例ではないかと思うんですね。
まぁ春秋五覇の中では斉の桓公と並び称される名君ですから私の想像なんですけどねf^_^;
歴史上で非常に好きな人物の一人です(^-^)
5/27 18:27
▼こーやんほぇ〜(。。;)師匠、詳し過ぎです
f^_^;
ところで「重耳」の由来は何でしょ?読み方もわかりましぇん
(?_?)
5/27 17:06
▼関将軍あ、牛輔は暗殺でしたね。暗殺・戦死は設定が長いんですf^_^;
史実によると、董卓暗殺の動乱の中で娘婿であった牛輔は董軍閥を率いて防戦しますが、配下の胡赤児に殺害されとりますね。
臆病な性格だったとも伝わり、味方が善戦中にも関わらず戦場から逃亡を計ったため、配下に見限られたとも言われていますf^_^;
5/26 19:37
▼怜悧ガーン Σ( ̄□ ̄;)
もう198年冬だがな‥
色気出し過ぎて春が来たのか?(謎)
軍団戦八戦八敗なので、息絶える機会は充分にあったと思うのですが‥ま、こればかりは運ですね。
5/26 18:36
▼関将軍怜悧さん>牛輔は192年前後ですね(^-^)
5/26 14:40