忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ28 2016/5/11 9:43

▼小柳
熊本
おはようございます、続きです
このように武士は菊池家の惣領として北朝軍と戦い続けていたのですが、ある日突然、南の合志能登守幸隆が攻めて来て、菊池本城を占領してしまった訳です、これは阿蘇惟澄軍忠状にのこされてます。いつの事か、この軍忠状の日付は正平五年で後に提出された物で不明ですが、武重公の奥方と侍女のお墓の日付が興国五年6月1日なのでこれに従いたいと思ってます。興国五年正月に武士が請文を出して、気弱になっていることが分かり、10月には家督の座を完全に放棄して引退しているのが分かります。この10月の譲り状の内容が重要です。 続きます
2016/5/11 9:43

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
遅くなりました、申し訳ありません。
続きです、興国四年、三月25日大友の将、志賀頼房が菊池の鞍岳の麓で菊池武士と戦い、突破し、27日菊池城を攻めています、何とか撃退したもの、四月7日またもや菊池に迫り21.24日と攻防戦をが展開されてます。しかし、これも撃退しました。それから武士はすかさず逆に五月、兄の五郎武茂に命令し、筑後の竹井城に進出して一色軍と激戦を行いますが支えきれず七月に撤退してます。また、これより数年前位から武敏の後は八郎武豊がしきりに筑後に進出して筑後を平定してます。要するにこの四年いえ、五年の10月までは菊池家の惣領は武士であるのは間違いないところです。
2016/5/10 23:50

▼管理人
茨城
驚きました。
小柳様が、私より菊池家の歴史について、よくご存じなので驚きました。
真実の歴史が、世間に伝わらずねつ造された歴史が本物として存在している例もあります。最近になって、それが覆されているのを見聞しますが、虚構の歴史は正さなければなりません。
2016/4/26 10:08

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
その通りと思えます。
正式の摘流の乙阿迦丸と庶流の武光の争いだったのが残された武士の文書等で推測出来ます。今、言える事は菊池家は庶流は戦国時代に亡び正流は脈々と残っていたと言うことです。それが菊池様あなたです。これは大発見です。元に戻って残された文書から順に解明していきましょう、それは後日に。実はお恥ずかしいのですがスマホの調子悪いので遅くなるかも知れません。申し訳ありません。
2016/4/25 21:03

▼管理人
茨城
真実は、どうなのか 
嫡流菊池次郎武重と庶流豊田十郎武光に確執はなかったのかどうかはさておき、菊池家の嫡男に用いる菊池次郎を名乗っていますので、菊池家嫡男を偽装し、菊池家惣領と名乗ったのは確かです。阿蘇家文書に武光の本心が書いてありますので良くわかります。
その前になりますが、内談衆の事にも武重の思いが書いてあります。これは武重に、謀反の予感があって書いたものと思われます。時代は遅れますが、案の定、嫡流家は武光によって排除され、庶流家の武光が菊池家惣領となりました。武光は豊田家惣領なのですから、菊池家の本流ではありません。
乙阿迦丸は、嫡流家の嫡男の名前ですから武重の長男で、乙阿迦丸が菊池家の正統となります。また、歴代の当主からも、乙阿迦丸が排除されていますから、この時点で、肥後菊池家嫡流は滅亡したことになります。
2016/4/25 14:04

▼小柳
熊本
続きです
武重公がまだ元気で頑張っていた頃、例えば上洛して、新田義貞の下で働いていた頃、歳の近い三兄の武敏(四郎隆舜(たかとし))を呼んで留守の時、九州の事は頼んだぞ、と位の事作戦等は話していたとは思いますがその他の兄弟、ましてずっと年下の武光とそんなに会った事も顔を合わせた事も無かったのではないか?と思えます。正月等お祝いの日位に兄弟一同顔を合わせていたのでは?それ程惣領の威厳は高く面と向かって話なんて事は無かったはずです。続きは後日に
2016/4/23 22:29

▼小柳
熊本
続きです
だからこそ同じ南朝として一生懸命にこの東福寺を守って来られましたよ。もし、将来また無人のお寺になっても檀家の総代さんの立山さんが頑張っておられますので、また及ばずながら私も見ていきますのでこれからも応援お願い致します。この立山さんの父親の故隆弘さんがこの東福寺に一生懸命でした。十代武房公の墓もここにあったとか武重公の奥方の事も話を聞かせてもらいました。話は元に戻って武重公の話をさせて下さい。
2016/4/23 21:44

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