忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ29 2016/5/16 10:43

▼管理人
茨城
乙阿迦丸は、
私は、このあとの、乙阿迦丸の行動を知りません。乙阿迦丸は、いったいどのような行動をとったのでしょうか?
2016/5/16 10:43

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
早く言えばそう言う事です、
しかしそうすぐには出来ません。武光は庶子で下益城の豊野辺りが本拠地でしたのでほとんど兵を持ってなく、阿蘇惟澄も庶子でしたのでこれもまた同様にないので日向高千穂から兵を連れて来て、兵を増強して来たわけですね、主力は武光軍より阿蘇惟澄の方であったと思いますよ。そして合志幸隆を追い落とした後、武光は豊野に帰らずそのまま菊池に居座ったのではないでしょうか?しかし、菊池にはすでに惣領として乙阿迦丸がいます。前にも言いました様に菊池家の惣領には母親の身分が高くなければなる事は不可能です。乙阿迦は武重の子であるので当然パスで、武重の兄弟の中で最も高いのが武士です。しかし武光は豊野の側室の子であるので問題外です、それで仮に自分が惣領になると言っても一族兄弟誰も承認しません。続きます。
2016/5/15 0:09

▼管理人
茨城
この後
この後、武光は、菊池家惣領を名乗ったのだろうと思います。嫡流は反対したのですが訴訟の結果このような評定になったのでしょう。
2016/5/13 13:58

▼小柳
熊本
続きです
乙阿迦丸が家督を継いだと思われるけど、まだ大事な問題が残ってました。菊池本城を占領されたままです、何とか奪回しようとしていたと思います。興国五年の末から六年の初めの頃です。重鎮の四郎武敏はすでに興国二年頃から豊後院内へ(得永文書)、五郎武茂と八郎武豊はやる気満々と思われるけどこの興国五年の激戦で消耗していて兵が思うように集まらない。その点、合志はほとんど無傷でした。そうこうしているうちに武光が阿蘇惟澄の援助を受けて菊池に来ました。興国六年の夏頃の事です。阿蘇惟澄軍忠状によると(日向高千穂の軍勢を率い六日間の激戦で合志を追い落とした)とあります。続きます。
2016/5/12 11:37

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
菊池様の家に代々伝わる伝承や儀式、
は元々熊本の菊池家にあったもので、恐らくは乙阿迦丸がそちらに持って行ったのではないでしょうか、もうこちらには残ってはいませんけど。菊池家にはその様な伝統があったのだなあって感慨深いものがあります。いつの日か菊池一族にまた日が当たる時がくるまで、いえ、それ以降もずっと伝統は残しておいて下さい。 さて話は続きます。菊池の本家はその様に菊池又は筑後方面で戦っていて、武光は本拠地の下益城の豊野辺りで阿蘇惟澄と共に戦っていました。さて、これからが問題なんですね、続きます
2016/5/11 23:30

▼管理人
茨城
その通りだと思います
いつも、ご投稿を有難うございます。
あまりにも古いことなので、残されたわずかな古文書を、丹念に調べることで、さらに詳しい歴史を解明できればと思います。
また、小柳様の菊池家の歴史観にも、大いに感銘を受けております。
我が家のことですら、よくわからないのが実情なのです。
我が家に残る伝承や遺物が、その子孫であることの証ではあるとしても、その歴史を知らないのでは情けなく思います。
今回ご投稿の内容は、私もそのように思います。これからも、ご教示頂ければ幸いです。
2016/5/11 20:39

▼小柳
熊本
続きです
この10月の武士の譲り状では家督を第一に乙阿迦に譲りたいが、良くなければ二番目に兄の与一武隆に、それでも良くなければ大智殿におまかせします、と書いてあります。ここで不思議なのですが何故武重の子であり甥である乙阿迦に家督を譲るのをためらっていたのか?それはまた別に考えるとして、しかし恐らくは大智は乙阿迦を指定したと思えます、がまだ乙阿迦丸は成人していないんですね。この頃の時代は15.6歳でお嫁さん貰ってそれが成人で第一子をもうけているようです。武時の15.6歳の時の子が武重であったように。
2016/5/11 11:07

▼小柳
熊本
続きです
興国二年頃から乙阿迦丸を補佐して、菊池家を経営していた武士であったけど、四年3月、4月と大友軍を撃退し、さらに5月筑後竹井城に進出、7月には撤退と惣領として頑張り戦い続けていたのですが、翌正月弱気になり6月には武重公の奥方(武士の母)も殺され、10月には家督を譲ろうと思ったのでは、と推測されます。この頃の主戦武将は八郎武豊であったけど筑後方面に出陣していて菊池の方面は手薄になっていたのを合志幸隆に突かれたんですね。これが決定的になったと思います。この譲り状の内容が大切です、 続きます。
2016/5/11 10:19

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