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忠誠の菊池一族掲示板
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(削除パス)
小柳
熊本
Re:管理人さん
菊池様、お元気されてて嬉しい限りです、
それと菊池様と私の見解大いに違うと思いますけど、読んで頂きありがたく思います。今日も東福寺に行ってまいりました、私は菊池一族ではありませんけど、人生において菊池一族と知り合えた事大いに力を貰えた事感謝してます、また、武重公の御子孫であられる菊池様にネットでも知り合えて嬉しいです。話変わりますけど、いまは、菊池一族のファン増えているそうですよ。ネットで若い女性に刀剣乱舞で、同田貫がなかなか人気ありこの同田貫こそ、十代武房が京都山城国から来一族を菊池に招いたのが始まりです。また、今月19日から熊本県立美術館で大々的に(菊池一族の戦いと信仰)が始まります。もっともっと菊池一族の事皆に知って貰いたいですね!
2019/7/13 0:23
[au]
管理人
茨城
詳しくて驚きました
小柳様、いつも菊池家の歴史を、詳細にご教示いただき恐縮です。
当方は、無職の身となり以前より忙しく、畑や蜜蜂の世話に日々の大半を浪費しています。
浪費と言っても、時間の浪費ですから心配ありませんが、我が家の歴史を、さらに究明することができません。
小柳様の理路整然とした解説は、その私の勉強不足を多いに補ってくれます。これからも、ご投稿を楽しみにしています。
ありがとうございます。
2019/7/12 22:27
[PC]
小柳
熊本
Re:小柳さん
Re:続きです、
ただ、武重公の墓は少し離れた田んぼの中にあったので破壊は免れました。また、すぐ下の弟四郎(系図では九郎)武敏は14代武士の時、13代武重が亡くなって間もなく早々と豊後院内へ、一族郎党と共に移住しましたのでそこに墓が残ってます。武士は出家して諸国を遍歴し、最後は八代の二見に墓があります。
2019/7/12 14:09
[SP]
小柳
熊本
Re:小柳さん
Re:続きです、
ところが残念なことに加藤清正が慶長年間、肥後に赴任してきて、築地の井手(灌漑用水)を作るさいに東福寺の下、数百あった将兵の墓をことごとく壊してしまいました。この中に彼ら主だった武将の墓があったと思われます。武房公の墓もあったと言われてます、数年前玉名の個人の住宅の敷地内で見つかったと(言い伝えで)言われました。が、私の見解ではあれは墓ではありませんし、ここに墓がある理由がみあたりません。
2019/7/12 13:45
[SP]
小柳
熊本
Re:小柳さん
Re:続きです、
菊池家の惣領を受け継ぐには先代の譲り状と一族重臣の承認を得なければなりません、でも武澄除いて誰も承認しなかったものですから、武光としては波乱のスタート、大変苦しいスタートでした、でも肥前守六郎武澄と阿蘇大宮司惟澄が大いに力になってくれたので彼らのお陰でなんとか困難を乗り切り九州に覇をとなえる事できました。だから武光が惣領になってからは一族重臣の資料歴史上急に途絶えたんですね。だれも認めなかったから。前にも言いましたように武澄の墓は法名慈雲?は正観寺にありますがその他名だたる武将一族重臣達の墓は恐らくはこの東福寺にあったと思われます。
2019/7/12 10:37
[au]
小柳
熊本
Re:小柳さん
続きです、
この与一武隆とはすぐ下の弟の14代武士が後継ぎに(兄の与一殿にしようか、それとも武重公の子である乙阿迦丸にしようか)迷っていたのが菊池武士書状に残ってます、ところがそれを決めるのを大智和尚にお願いして出家してしまい、その後十郎武光が半ば強引に15代に襲名してしまいました。始めは征西府と吉野朝は戸惑ってました。しかし後で認めてます、が、菊池一族の重臣達は誰も認めていません、唯一六郎武澄だけが認めてます。だから菊池の武光の菩提寺である正観寺には兄弟では唯一墓が残ってます。
2019/7/8 18:50
[au]
小柳
熊本
Re:初代菊池の末裔さん
はい、大丈夫でしたよ
県南の方、人吉球磨地方が大雨で大変だったみたいです、益城が全国放送で流れてましたけど、大した事ありませんでした、菊池様みておられますか?この益城は与一武隆の本拠地だったんですよ。島田家文書に武隆が練崎城に~と記録に残ってます。このねりさき城とは何処なのか不明です。
2019/7/6 15:50
[au]
小柳裕治
熊本
すみません間違いです、
戦国武将⇒戦国大名
幕末の西郷隆盛⇒明治維新の西郷隆盛
2019/4/19 10:36
[au]
小柳裕治
熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
南北朝時代の事、本当はもっと詳しくお話したいのですけどこれで終わります。菊池一族は公家同士の戦い、武家同士の戦いには余り介入しません、それは以上の様な理由からです、実はそれであるが故に欲で動かない故に戦国武将になり得なかったんです!そして戦国時代には滅んでしまいました。でも菊池一族の精神、美しい凄いと思いませんか?!。私は菊池一族ではありませんが歴史上の人物武将で最も尊敬それ以上が菊池一族です、世界中で類を見ない立派な一族ですよ!言い過ぎではないです、でも神様仏様とは思ってませんよ。
2019/3/26 23:52
[au]
小柳裕治
熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
その後、南北朝の時代を迎えます、その時代をみると分かるのですけど天皇対武家(足利、源氏)の構図となります。これからが管理人の菊池様の御先祖であられる13代武重の時代です。当然何があってもどんな不利な状況であっても最期まで天皇家に味方しました。これは当然の成り行きです。もうやめればいいのに、武家方になればいいのに、と思うんですけど、それを絶対にしないのが菊池一族の鉄の意思偉大な精神力です。それと同時にもう一つ言える事は私利私欲でない事、恩賞目当てでない事です。幕末の西郷隆盛がそうであったでしょう!これがまた凄いところで世間の人達に知って欲しいですね!
2019/3/26 23:05
[au]
小柳裕治
熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
この活躍で武房は歌にまで歌われたと言われてます。しかし、幕府からは何の恩賞もありませんでした、ただ朝廷から甲冑を頂いただけです。これにより武房は怒り、これにより菊池一族は反幕府へと傾斜していく!と言われてますがそうではありません。実は菊池一族は幕府の御家人ではなく朝廷直属軍であったからです。朝廷は土地を持ってないので甲冑を褒美として与えた訳です、今は平氏(北条)の世と言えども武房も自分より下の幕府から恩賞を貰う訳にはいかないではないですか、誇りが許しません。しかし、幕府はかえって気の毒がり弟の三郎有隆には恩賞(土地)を少しばかり与えてます。反幕府というのは成り立ちません!
2019/3/26 22:27
[au]
小柳裕治
熊本
Re:初代菊池の末裔さん
続きです
菊池の血が流れているのなら菊池一族の凄いところは心の中にしまって誇り高く生きて行って下さい。あなたは井芹さんですよね?井芹とは菊池八十三家の一つです、蒙古襲来絵詞に描かれている菊池六集団の左端が井芹氏と思われます、あなたの先祖は武房と共に菊池軍団の一員として蒙古軍と命懸けで戦ったと思います。この元寇で日本軍が散々敗北したのに対し菊池武房は大勝利を治めました。元軍に精神的にも大ダメージを与えたんですね!あんなに日本軍をナメていた元もまさかこんな強い武士がいたとは、これが彼らの撤退の原因のほとんどと考えられます。また次回に続きます、
2019/3/23 23:32
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