忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ18 2012/1/5 10:59

▼菊池家との縁者
福岡
白銅鏡
初めまして、ホームページに書かれている白銅鏡は菊池家縁の鏡と思います。同じ白銅鏡が我が家にも伝わってます。
2012/1/5 10:59

▼菊池
茨城
小柳様
いつも「書き込み」有難うございます。菊池家の歴史も、色々な情報が流布され伝承されています。しかし、すべてが真実ではなく、当事者の都合的情報も一部には含まれているものと思います。それが、歴史を一層難解なものにしています。歴史は、関係者や当事者の思いや願いに添って、固定化する傾向があるのかもしれません。私も家の歴史をたどりましたが、まだ、真実は見えてまいりません。ただし、伝承や遺物から、我が家の自己主張だけではないと自負をしています。創作不可能な遺物や伝統行事、家例などを確認し、それらの一致により歴史的整合性を得ることが、真の歴史に近づく一歩なのかも知れません。また、武重のお墓がどこにあっても不思議ではないと思います。子孫が守るのであればなおさらです。私は、武重の子孫と書かれた石碑を守る子孫ですが、他にも武重の子孫がいても不思議ではありませんし、自己主張している者もいるかも知れません。しかし、それを止める手立てもありません。
2011/12/29 5:22

▼小柳
熊本
こんにちは、菊池様小柳です
武重公の話に行く前に私の思うことを聞いて下さい。菊池一族の本は多数書かれてますがその全てが原本は江戸時代の肥後の学者?の八木田政名が言い伝えや古文書を収集して纏めた肥後文献叢書の新選事跡通考と思えます。代表的なものが植田均の純忠菊池史乗や平泉澄の菊池勤王史です。まだその他多くの本も大体この新選事跡通考が原本となってます。しかし、ここで私が言いたいのはこれは半分以上は言い伝えなんですよね。文書ばかりが証拠では無いんです。文書こそが証拠となるなら世の中半分以上は嘘となってしまいます。言い伝えこそ一番の証拠、信憑性のある確実に近い証拠とおもってます。その他その時の状況、今残されてる現在の状況を総合的に勘案して真実はどうなのか考えてみたいと思ってます。菊池様は文書こそ残っていなくても紛れもなく状況や言い伝えで武重公の子、すなわち乙阿迦丸の末孫と思えます。乙阿迦丸と武重公の関係は既に述べたので省略しますがまた何故常陸の国まで行かなかったのか?それは後程菊池様とお話しするとして、武重公のお墓は東福寺にあったのは間違いありません。現在の状況として歓喜院跡と地名が残ってますし文書にも大知が歓喜殿と言ってます。続きは後日に。
2011/12/25 12:50

▼菊池
茨城
投稿について
投稿時の入力必須項目は、名前、地域、メールアド、タイトル、本文(コメント)のみでOKです。
2011/12/25 4:50

▼菊池
茨城
掲示板のリセット
皆さまには、大変お世話になっております。わけあって、過去ログをすべて削除いたしました。掲示板は、新規一転となります。これから掲示板ご利用の皆さまには、菊池家の歴史解明が進展するような情報の書き込みを、切にお願いいたします。
これからも、「忠誠の菊池一族」をどうぞ宜しくお願いいたします。
2011/12/22 4:08

1917

掲示板に戻る