忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ13 2011/9/15 4:46

▼菊池
茨城
書けないことも
時隆と武元以来、菊池家の家督相続も整然とした清いものではなく、他の武家と同様でした。しかし、子孫として家督争いの詳細について、書けないことも多々あります。歴史的な事実と、公になっている文書から判断をしていただき、それでご容赦いただければと思います。ご存じのように、菊池家の家督は嫡流、庶流、他家が継ぎましたので、残念ながら肥後菊池家としての血脈は、継続していません。
2011/9/15 4:46

▼菊池
茨城
書けないことも
時隆と武村以来、菊池家の家督相続も整然とした清いものではなく、他の武家と同様でした。しかし、子孫として家督争いの詳細について、書けないことも多々あります。歴史的な事実と、公になっている文書から判断をしていただき、それでご容赦いただければと思います。ご存じのように、菊池家の家督は嫡流、庶流、他家が継ぎましたので、残念ながら肥後菊池家としての血脈は、継続していません。
2011/9/15 4:42

▼菊池
茨城
Re:小柳さん
Re:小柳様
博多合戦の時に、乙阿迦丸は五歳であっとされています。「武士譲り状」に「養子の乙阿迦丸に家督譲るが発願を破りいかようなる事も候わん時には、兄の与一(武隆)に譲リ候べく候、もし与一殿も発願を破り候ずば僧(大智禅師)の御はからひとして、、」と書かれています。つまり、最後は、大智禅師に一任しているのです。この中に武光の事などは、一切、書かれていないのです。もちろん、その後の大智禅師と武光の関係も良好とはいえませんでした。武光は、のちに熊耳山静観寺に大方和尚と秀山和尚を招いて開山をしています。つまり、武士や大智禅師の意志が反映されていない武光の家督相続であったことに、間違いはありません。このことは、裏に武重の消息の重大な事実が関係していると考えています。
2011/9/12 21:03

▼小柳
熊本
Re:菊池さん
菊池様こんにちは、小柳です。
いきなり武重公の話に行かせて貰います。父、武時には十数人の子供がいるのですが本当かな?と思ってました。でも出来ないことはない、武時が十六歳の時の子が武重とするとこれからの話が繋がっていきます。一族兄弟の年齢と序列は後ほど詳しく述べます。武時が博多合戦元弘三年(1333)で42歳で討死した時、武重は26歳、武光は15〜6歳、武士は13〜4歳、では乙阿迦丸を武重の次男と仮定すると、長男の〇〇丸は悲しくも博多合戦の帰り道、筑後の横隈で討たれているのでその時の年齢は7〜8歳、乙阿迦丸は3〜4歳と仮定します。武重公が没したのは色々説がありますが興国二年(1341)とすると34歳、乙阿迦丸11〜2歳。まだ元服前、当時の成人元服は何歳か不明ですが15〜6歳と
みています。武重公が亡くなって、その後を受けて乙阿迦丸が出した起請文は興国三年八月七日、その僅か三日後、興国三年八月十日武士が起請文をだしています。内容はすでに惣領として一族の方向を示しています。乙阿迦丸の起請文の第二条に「武重、武士の家を継ぐ間」と書いてあります。と言うことは、武重が亡くなってから自動的に一時期惣領の座についていたと思われます。何故なら惣領武重の子であるから。ところが余りにも若いので、武重と同じ母親の武士が継いだとおもえるんですね。昔は母親の身分の高低に依って惣領は決ってたので。因みに母親は赤星有隆の娘です。この時、又次郎武士は22〜3歳、乙阿迦丸12〜3歳。でもいつかは乙阿迦に元服したら惣領の座を返そうと思ってた節があるんですね。それは武士の書いた譲状です。年号が無いので、ただ十月二日だけですが多分興国四年(1343)の事だと思われます。内容は武士
2011/9/12 11:57

▼菊池
茨城
訂正と加筆があります。
乙阿迦丸の起請文とすべきところに、阿の字が抜けてしまいましたので訂正します。
さらに付け加えますと、本来、武家は武力を持っていましたので「何事も武力で解決すると言う習性や感覚」がありました。このため、多くの武家が、このような行動に走ったのは事実だろうと考えています。しかし、歴史の真実はだれにも分かりません。あるいは、違うのかも知れません。小柳様や皆さまは、どのようにお考えでしょうか?いずれにせよ「歴史の真実」への興味は尽きませんが、、、。
2011/9/1 5:06

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