忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ15 2011/9/24 5:40

▼菊池
茨城
歴史的裏付けは、何もありません。
「武重の終焉の地は、一体どこなのか?」については、多くの見解が存在しています。我が家は、武重の子孫とされていますが、このことについての伝承はなく、真実は分かりません。「菊池軍記」には、武重の死去年月日は不明なりとありますし、延元三年十一月以降の歴史資料から、武重の消息は見えなくなります。いったい、武重に何があったのでしょうか?また、なぜ、剃髪をして東福寺の僧となった説があるのに、東福寺関連以外の資料には、そのことがないのでしょうか?その後の病没説も、はっきりとした没年もありません。あるいは、小柳様のご見解の通りかもしれません。しかし、アリバイ(真の歴史情報)がなく、武重の消息は不明確なままなのです。観喜院跡の石碑は文化十三年(1816年)に当時の住職によって建立され、寺はその後大いに栄えたそうです。その墓石には、「菊池肥後守武重朝臣之墓」裏面に「興国三年巳八月三日卒去」とあります。また、武重が肥後に病没したのであれば、我が家の伝承もなくなります。それでは、我が家の家例や遺物は、ねつ造したものなのでしょうか?何百年も前の、それも菊池武重しか知りえない歴史情報を、はるか彼方の地に住み、武重や菊池家、肥後の歴史を知り得ることができたのでしょうか?公にされていない、菊池家の情報を他が得ることは、全く不可能と思うのですが、これも説明がつきません。歴史は、後世に都合の良いものが残ると言います。庶流にとっては武重がいない方が都合が良かったのかもしれません。それでも、私は、今も菊池嫡流の子孫であると確信をしているのですが、、、。
2011/9/24 5:40

▼小柳
熊本
Re:菊池さん
こんばんは、小柳です。
毎日、仕事で遅くなり中々直ぐに返信できなくてすみません。さて、菊池様の問いに私なりに解釈返事する前、先ずは武重公の終焉について話させて下さい。延元三年(1338)三月石垣山の戦い、十月小清水山の戦いをを最期に資料の上から姿を消します。この頃もうすでに具合が悪かったのか、もう自分の命は長くないと感じていたのか七月「よりあいしゅのないたんの事」いわゆる菊池家憲を書いてます。武重31歳。この家憲の内容はいわゆる自分がいなくなった後、弟たちへの戒め、教えですよね!内容は大まかに言うと(場合によっては惣領の一存だけでは駄目だよ!皆で決めよう)と解釈してます。そしてその後を承けて八月弟の武茂が、翌延元四年(1339)六月武敏が起請文をだしてます。そして興国二年(1341)武重は死去したと思います。死因は不明ですが、病死?ガンか結核?ではないでしょうか?菊池様はなぜ自ら建立した聖護寺に墓がないのか?と言われました。彼は生前既に剃髪して、法名歓喜を名乗り東福寺の下、百m位前の田圃の一角に庵を立てて毎日毎日戦いで死んでいった将兵のことを思い出して一人一人供養をしていたと伝えられてます。始めは武重も聖護寺にと考えたと思いますが、やはりここ菊池一族代々の菩提寺である東福寺を選んだのではないでしょうか。この歓喜院あとの武重公の墓に何十回いやそれ以上立って見てると、丁度上の東福寺が拝めるような位置なんですね。東福寺の下はずらりと菊池の将兵の墓が2、3百mに渡って並んでいたと伝えられてます。毎日それを拝めていたのではないでしょうか?その墓石群も400年前、肥後に入国した加藤清正によって取り除かれ井手(感慨用水)になってしまいました。
2011/9/23 1:10

▼菊池
茨城
楠家との縁
我が家の替紋は「丸に菊水」を用いていますので、楠家との縁は相当に深いものであったと考えています。楠正成候は、博多九州探題攻めで、武重の父武時が討ち死にをした後、御前会議の席上に於いて、後醍醐天皇に菊池家の忠誠を奏上してくれました。そのおかげで、武重は肥後の守となり菊池家の安堵にもつながりました。その後、常陸には北畠親房や楠一族も滞在していますので、武重の子孫も来ていたのかもしれません。武重には子がないとしたのには、理由があります。それは、庶流にとって嫡流は滅亡したとする方が、好都合であったのだろうと思います。さすが、小柳様の見解はお見事です。それでは、なぜ、嫡流が南北朝期に九州から逃げ出すように、東国を目指したのでしょうか?その時、庶流(豊田家系)は、九州に残って戦っていいたのですから、それがわかりません。
2011/9/16 20:39

▼小柳
熊本
Re:菊池さん
菊池様へすみません返信自分から
自分の方へ行ったみたいです。続きです。明治以来色んな人達が菊池一族の事を研究していたのですが何故この事に誰も気ずかなかったのでしょうか?戦前の菊池勤王史の著者の平泉澄氏は「乙阿迦丸はこれ武光であろう」などと言われてますしこれが定説となってました。無理もないかも知れません。何故なら武重には子がいなかったと言うのが定説でしたから。ところがどっこい子がいたのですね。楠木一族に案内され、日立の国へ乙阿迦丸は行ったのですね。日本大学の名誉教授の故菊池秀之氏はこの南北朝時代を境にして全国にこの肥後の国から全国に散っていったそうです、何故でしょうか?
2011/9/16 19:48

▼小柳
熊本
Re:小柳さん
菊池様へ、話を元に戻します。
そうですか、1333年の博多合戦の時は乙阿迦丸は五歳だったんですね。それは数えですね、私は満だの数えだのでバラバラで計算してるんです(笑)そうですね、譲状には武士の後は養子として乙阿迦(まだ元服前)に譲り、ダメな時は兄の与一殿に譲りたい、それでもダメなときは大智殿にお任せします!と書いてます。武士23〜4歳、乙阿迦
13〜4歳、武隆
24〜5歳と推定してます。この時、十郎武光はまだ蚊帳の外なんですよね、何故なら母の身分が低く多分与一武隆の母より低かったのでは?と推測してます。こんな惣領の引き継ぎの大事な時、乙阿迦丸の名前が出てくるのは間違いなく武重公の子であったかが確信できました。一連の流れからいくと、武重死去して、乙阿迦が一時継ぎ、その後武士が乙阿迦を説得して、武士がつぎその後何故か理由は不明ですが後は譲ると言って菊池を後にしたとなります。この時点で武光はまだ出てきてないんですよね。その後数年後、博多から大方元快を招いて正観寺を立て菊池五山のトップに立てたので大智はおりずらくなって玉名に移った事は、阿蘇品氏の菊池一族に詳しく書いてある通りです。
2011/9/16 11:31

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