忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ31 2016/5/25 0:11

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
こんばんは、菊池様。その他にも
正月の飾り方、その他の行事、儀式等、他にはみない特別なものですよね、元々菊池家で使われていたのでは、乙阿迦丸がそちらに持っていったのではないでしょうか。それと公爵の方が菊池様の家に来られたのでしょう!宮内庁いえ天皇家は本当の何か情報を持っているのではないでしょうかね、なかなか表には出さないんではと思いますよ。その確信があったからこそ公爵の方がそちらを訪れたのでは。
2016/5/25 0:11

▼管理人
茨城
その通りです
恥ずかしい限りではありますが、菊池家は、庶流(豊田家)、阿蘇家、分家(詫磨家家)、大友家に奪われながら、名前だけは肥後菊池家として続いていたのです。
祖先については、「乙阿迦丸」とは、言わずたしか「乙阿迦」と言っていたと言うことを、祖父の弟から聞いた記憶があります。しかし、父は乙阿迦丸のことは知っていましたので、代々そのように伝承されてもいたのだろうと思います。
2016/5/24 20:11

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
こんばんは、菊池様
菊池一族はずっと一丸となって北朝軍と戦っていたと、普通思いますよね。まさか菊池本家と分家が嫡流と庶流に何かしら確執が争いがあったなんて。誰しもスムーズに武重→武士→武光と家督は移って行ったと、ただ乙阿迦丸は定説では武光であるけどそれに異議を唱えるものもありましたけど。菊池様の家には先祖伝来のその様な言い伝えが残っていたのですか?しかも熊本菊池よりはるか遠い茨木の地に。その事自体が武重の子乙阿迦丸の子孫である証拠ではないですか!戦前よりいままで誰もがその事について想像しなかったですよね私も前まで考えた事もありませんでした。続きます。
2016/5/23 23:31

▼管理人
茨城
遺物として
帯戸の「竜華樹の模様」やギヤマンの皿の「日足紋」持仏としての千手観音などは菊池家と関連のある遺物てす。これらの製造国名や製造年代は、知る由もありませんが、代々伝わるもので、菊池家以外の誰かがこれを偽造し伝えることは、情報的にも無理であろうと思います。
2016/5/23 19:47

▼管理人
茨城
藤原氏との関係
私は、「忠誠の菊池一族」の中で、藤原氏家系図と年代的な考察によって、藤原氏後裔説を否定しております。しかし、我が家の代々の言い伝えでは、藤原氏の出であることを、祖父の弟や父などから聞いて育ちましたし、このことを、代々、家人は誇りにさえ思っていたのは確かです。これは、公爵一条実孝公が、我が家を訪れ「忠誠」と、揮毫したことも、このことに関係しているような気がしますが、現時点で、私は藤原氏後裔説には否定的な考えを持っています。
また、我が家の正月の飾り方などは、どこの家庭でもしていませんから、特別なことであり、菊池家嫡流子孫との伝承は確かだと思います。
2016/5/23 19:37

▼管理人
茨城
楠家との関係
菊池家の大恩人は、楠正成公であることは紛れもない事実です。菊池家は九州探題への討ち入りで、惣領武時と共に多くの家人を失い、窮地に立たされていました。約一か月後の探題戦で、九州探題は攻め滅ぼされましたが、菊池家の窮状は深まるばかりでした。この後に開催された御前会議の席上、楠正成公は、「元弘の忠烈は、、、、、一人勅ていによりて一命を落とせるものは、武時入道なり忠厚もっとも第一たるか」と、後醍醐天皇へ奏上致しました。この楠正成公のはからいによって、菊池家には、恩賞として肥後守、対馬守、肥前守が与えられ、困窮状態をを脱することができました。それから現在まで、我が家が裏紋として菊水紋を使用していることから、楠家との一体感はこの時に醸成されたものと考えております。また、当時、確かに楠一族が近くに来ておりますので、そのようなことも考えられます。
2016/5/23 15:05

▼小柳
熊本
続きです
菊池様は否定されてますけど、菊池一族は藤原氏と思われ、半分は公家で半分は武士、公家風の武士と感じられます。藤原氏であるかないかはまた後にしまして、ギヤマンの皿等、菊池様はどう思われますか?国産ですか?中国製?または中国経由でもたらされた物では?菊池家は対馬守を称しているものもありますね、武重の弟の武茂もそうです、中国(明)と交易していて手に入れ、惣領の武重に渡ったとは考えられませんか? また、話は戻り続きます。
2016/5/21 23:57

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
こんばんは、菊池様
それは菊池様が一番ご存じの事と思います。乙阿迦丸は訴訟で武光に敗れた後、正平二年頃までは菊池にいたと考えられます、この年懐良親王が宇土に上陸したのを迎えに行ったのは武光だったからです。本来なら惣領である乙阿迦丸であったはずですから。何の記録も残ってはいませんので推測ですけど、友軍の楠木一族に導かれ遠い常陸の国へ行ったと思われます。楠木一族は全国に情報網を持っていた特殊な一族でこの事を内情を知って乙阿迦丸を案内したといっても不思議ではありません。その他菊池一族はこの南北朝時代を境に全国に散って行きましたよね、それぞれ事情は異なるとは思いますけど。あなた様はその乙阿迦丸の末孫と思われます、そのいまだに残っている儀式、行事は公家風でもあり武家風でもある珍しいもの。続きます
2016/5/21 23:36

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