忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ32 2016/6/11 0:27

▼小柳
熊本
続きです
それで、たどり着いたのが菊池一族なんです。なぜ、あんなにいつも圧倒的に不利な状況なのにそんな事脇目もふらずまた、者ともせずいけたのが不思議でたまりませんでした。少弐氏や大友、島津氏のように要領良くいけばいいのに。菊池一族は意志が強いですよね!他の武士が持っていない鉄の意志を持ってます、私はそれが無いので超魅力的に感じられるんですよ。反省して考えると、私がそんな強い意志があったらもっと良い生き方出来たかも知れませんとね。私は菊池一族の中でも武重公の右腕として戦った掃部助武敏公が大好きで私にとっては神様です。東福寺の先代の住職からも聞かれた事あります、私の先祖は南北朝時代菊池一族に加担して北朝と戦ったかも知れないよと、きっとそうかも知れません。
2016/6/11 0:27

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
こんばんは、菊池様遅くなりました。
人生、生き抜いて行くのは大変ですよね!やはり誰しもが何かにすがりたい、頼りたい、と思うはずです、それで宗教に没頭する者もおれば悪い方向へ行く者もいるかもしれません。私の場合は神様仏様は敬いますけど実体の無いものを信用するのは無理な性格です。幸い歴史好きでそれにヒントを探していました。始めに誰しもが目にするのは戦国時代で織田信長や武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康等ですか。でも上杉謙信を除いて皆ただの権力争いなんですね、この戦国時代というものは、天下統一等綺麗事を言っていますが、誰も魅力感じられません。しかし南北朝時代は何か違うんですよ、魅力感じます、勿論この時代は天皇家と武家の権力争いではあるんですけど。続きます
2016/6/11 0:00

▼管理人
茨城
その通りです
菊池家宗家としては、一貫して南朝でしたが一族の中から外れていったものや、宗家と敵対したものは、その限りではありませんでした。北朝側についたものもあり、武家政権になってからも敵味方となり戦っていたようです。しかし、私の祖先は、一貫して南朝を貫いたと思っています。それにしても、小柳様の菊池家についての歴史観に驚いています。身内から投稿されているような、そんな感じです。小柳様と菊池家にはどのような縁が、おありなのでしょうか ?以前にも聞いたような気がしますが、、、、、。
2016/5/27 13:52

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
こんにちは、菊池様
それをそうさせたのは国で、国策ではなかったのではないでしょうか?菊池一族は一族団結して天皇の為に尽くした、内部分裂などありえないと。本当はそう言う事を隠していたのでは?私の考え過ぎですかね?実は菊池武宗というものは北朝についていましたよね、確か阿蘇惟澄に一度たたかれて、その子は南朝に従ってますけど。全ての菊池一族が南朝ではなかったのですが大体一致団結して南朝でした。
2016/5/27 12:26

▼管理人
茨城
子孫としては、
戦国時代は、菊池家のような、一族内の争いは決して特別なことではなく、ごく一般的な日常でした。それほどに、苛酷な真実が歴史なのです。また、世間は、菊池家を名乗る傍流を本流と勘違いしていました。それは、おかしいので、嫡流家は細々ながらも存在しています。と、「忠誠の菊池一族」のホームページで言いたかったのです。
2016/5/26 10:59

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
それで大体決まりですよね!
菊池様に伝わる言い伝え、伝統、この様な事総合的に考えると菊池本家、武重家の末孫であるということが。この様な争いがあった事を表に出さないで菊池本家が寂しく去っていた事を世に知らさなかったのは戦前の国策であったのでしょう、国にも責任はありますよね。私は思うんですけど幕末から明治の始め菊池けい彰運動が始まり戦前まで菊池一族は持ち上げられましたけど菊池一族としてはただ当たり前の事をしてきただけで、あの世で武重公以下菊池一族はえらい迷惑ではなかったと思うんですよ、国に利用されてきたと思いますね。何故なら西郷等は武重公以来五百年後、やっと悲願の天皇中心の国を作ったのに征韓論等、唱えていないのにまたこの事については後に話してみたいとおもってます。
2016/5/25 23:47

▼管理人
茨城
なぜ、曾祖母かと言うと
定介は、長男でしたが他に男の兄弟がいなかったので、妹の奈津が家を継いだそうです。
2016/5/25 17:59

▼管理人
茨城
詳しいことは、不明ですが、
日清戦争で戦死した曾祖母の兄(定介)の石碑は、国家より贈られたものと伝えられ、その石碑に、「武重一家を挙げて南朝に殉ず、定介はその裔なり。」と、漢文で書かれています。ゆえに、国家がこれを認めていることは確かだろうと思います。
2016/5/25 17:46

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