忠誠の菊池一族掲示板

過去ログ34 2016/6/25 0:12

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
その通りだと思います、
菊池一族は特に菊池本家は天皇の為、国家の為、私利私欲なく働くのが働いて来たのが本分でそれが他に見られない凄い素晴らしいところだと思います。十四代武士の末孫で福島県郡山在住の紺野さんという方が昨年の11月から2月まで熊本県玉名市で資料展を開かれてました、私は都合取れなく見に行けなかったのですがその方は家系図によると武士の嫡男武頼は1389年後亀山天皇の命を受けて現在の福島市に下向そのまま住み着き7代後に紺野姓に改姓したと言われてます。その紺野さんが言われるには戦国時代伊達政宗に敗れた後、一族が蒲生氏郷から家臣になるように再三要請されたけれども拒んで、郷士として生きる道を選んだそうです。例え、農民になっても臣下となってはならない、との家訓があり朝廷に仕えた誇りを持ち続けた先祖、これが菊池の精神だったと言われてます。
2016/6/25 0:12

▼管理人
茨城
国家との関係
菊池家にとって「二は吉兆の数字である。」と、家人から聞いたことがあります。
一時期からは、「次郎」や「乙阿迦丸」など、本来は二番目の子に名ずけるべき名を長男に授けました。これにも、二が良き数であるとの自負があったのかもしれません。国家第一の天皇家のために、忠誠を尽くすことも菊池家の本望と考えていたのでしょう。また、武重の娘が、天皇家に嫁いでいますので、その距離感も近しいものであったのかも知れません。菊池嫡流家は、国家のために働き、私利私欲を狙う者のために、手を貸すようなことはしていないように思っています。
2016/6/23 19:54

▼小柳
熊本
何故なら菊池一族は当時、幕府の
御家人でも何でもないので恩賞を貰う理由はないんですね、故菊池秀之氏が言うには菊池一族は天皇直属軍ではなかったのでは?と言われてますけど私もそう思ってます。だから朝廷から褒美として甲冑を賜ったのではないでしょうか。天皇家につかえているんであって幕府につかえているんではないんですよ、という誇りが感じられます。これはどういう事でしょうか?また、脇道にそれますが少弐と大友には人びとからバカにされたような面白い歌が残ってます。続きます。
2016/6/23 0:05

▼小柳
熊本
武房に撃破されてなければ
そのまま一気に大宰府を占領してさらには京都へ攻め上っていたかも知れません。以外と日本軍は強いぞ!という恐怖心が芽生えたと思うんです、歴史は変わっていたかも知れません。大袈裟かも知れませんが武房が日本を救ったと考えられませんか?私の贔屓目ですかね?武房のこの武功、歌にまでうたわれたと言われてます。しかし幕府からはなんの褒美もありませんでした、ただ、朝廷より甲冑を賜っただけであったそうです。それでよくみかける説は(これにより反北条に傾斜していき、武房は憤懣やりかたなく死去した)等書かれているのを見ます。果たしてそうでしょうか?私はそうは思えません。
2016/6/22 23:42

▼小柳
熊本
Re:管理人さん
菊池一族は元々大男であったろうとは
推測出来ます。赤星有隆といい、その子の寂正といい、また、この鎌倉末期から南北朝期は全体的に体格は良かったであろうとも推測出来ます。私も刀剣には興味ありませんが、普通太刀といえば60〜70センチ位であの佐々木小次郎の物干し竿でさえ80センチ余りです、それが1メートルもある大太刀を振り回していた阿蘇惟直、惟澄も180センチ以上の大男であったと思われます。さて、話は戻りますけど菊池武房のお蔭で蒙古軍は一時停滞して、進軍出来ませんでした、その後博多の町が燃えていますから武房に撃破されたあとは別方面から進撃はしたのだろうと思われます。
2016/6/22 23:16

▼管理人
茨城
蛍丸は聞いたことがあります
刀剣に詳しくありませんが、蛍丸が刀の銘であることは存じています。
また、歴史の真贋は不明ですが、先祖代々我が家は大男大女の家系であったとも聞いています。私は、170cmの中肉中背ですから、さほど大きくないのですが、わが子や甥などは大きく、長身で185Cm以上です。
我が家にあった刀剣類は、戦時中、そのほとんどを国家に供出いたしましたので、現在はあまり残っていません。
当時は、山のように庭に刀を積み重ねたと聞いていますが、はたしてどれほどの量であったのか、または大げさな、たとえ話なのかもしれません、、、。
当時の刀が現在まで、我が家に残っていたら、私にとっては大変あり難いとは思います。
しかし、国家の一大事ですから、祖父は価値のある刀も残さずに供出したそうです。
2016/6/22 19:44

▼小柳
熊本
菊池様は蛍丸をご存知でしょう。
1メートルありますよね、阿蘇惟直が菊池武敏と共に多々良浜で足利尊氏を迎え打った戦いで、使用し退却するとき弟惟成の肩につかまり片手で切り払い切り払い後退していったと言われてます。こんな1メートルもある大太刀を片手で振り回すなんて余程体格がよく腕力が強かったと考えられます。この蛍丸は戦後進駐軍が接収して行方不明になったので、岐阜の関市の刀匠がインターネットで資金を集め復活プロジェクトを立ち上げ今制作中です。さて体格の話で反れてしまいました、本来の話に戻ります。
2016/6/22 0:18

▼小柳
熊本
馬より引きずり落として組伏せて
生け捕りにしたとは、確かに身体も大きく腕力もあったと思われます、がこの鎌倉末期から南北朝時代は日本人の体格が良かった?と思える事があります、というのは南北朝時代は急に刀が大きく長くなるんですよね、何故?それまでは馬上からの一騎討ちが主体であったけど南北朝時代は集団戦になり両手で刀を使うようになったから、という説もありますがこれより約二百五十年後の戦国時代は刀は短く、身長も低いんですね、例えば石田三成は墓からの骨で計測してみると156センチでした。徳川家康も豊臣秀吉もそれくらいではないでしょうか。
2016/6/22 0:01

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